2013年4月27日土曜日

英語の教科書での日本語訳について思う事。



誰かに英語を教える事になってもちゃんと教えられるように、質問されてもちゃんと分かりやすく答えられるように、高校の時の3cm位ある英語の総合的な教科書を読み直してるんだけど、ちょっと納得いかなかった所を見つけた。四角の中の三つの英文の日本語訳はそれぞれ 〜た、〜です、〜いる で終わってる。三つの英文のニュアンスに違いは無く、どれも「我々は笑った」「私の父は教師だ」「小さな犬は/が私に向かって走っている」という事実を述べているだけ。なのに日本語にすると一つは丁寧語の形で終わり、一つは「だ」という強めの形で終わり、一つは「〜している」という単に状態を表した形で終わっている。二番目だって「〜である」で終われる。「です」でもいい。一番上のだって「笑いました」だっていい。「〜笑いました」「〜です」「〜います」なら全部形は統一されてる。若しくは「笑った」「だ/である」「います」でも良い。

ちょっと英語を学んでいけば、英語には日本語のような「です/ます」の様な表現や文が無い事に気付く。また逆に、例えば英語話者が日本語を学ぶと、英語には無い「です/ます」という表現がある事を学ぶ。日本語が母国語の英語学習者のみに関して言っても、こういう同じ様な形の文章で統一されてない訳になってると、「こう言うとですで、こう言うとだなのか」とか思う人もいるかも知れない。そうすると変な誤解を生む。

俺はこういう、教科書みたいに英語を体制的に(って言うのかな?)、客観的に例文とかを使って学んでいく場面では「です/ます」は使いたくない。だって"I am a student."は「私は学生です」ではないもん。"I am a student"は"I am a student"なんだよ。意味は「自分は学生である」という事だけど、訳としたら「私は学生だ」でも「私は学生である」でも「僕は学生であります」でも「俺は学生なんだ」でもなり得る。

またこれとは逆に、日本語を外国語として学ぶ人にも「です/ます」形では学んで欲しくない。何か食べて「これは美味しいです」とか変に聞こえる。赤ちゃんも敬語で日本語を身に付けていかない。食べる、行く、欲しい、とか。

だから大人で日本語を外国語として学んでる人も、「昨日寿司食べた。美味しかった(美味しいだった、はよくある間違いだけど許すよ)。また食べたい。」こっちの方がよっぽど自然。例え本来は敬語で話すべき相手に言ってたとしても、日本語が拙い者が使う日本語としては。だって敬語で喋ってるのにカタコトじゃチンプンカンプンだし、相手が目上の人でも、態度さえちゃんとしてればそれこそ「お前」とか呼ばない限り大丈夫。「お昼何食べる?私ハンバーグがいい」とかでもいいじゃん。

まぁ彼らが敬語で日本語を学ぶ大きな理由としては学ぶ側にとっても教える側にとっても「です/ます」形の方が統一性があるから学びやすいって事だよね。でも「だ/〜(い)る」形で学べば、ある程度日本語のレベルが上がればそういった文は「です/〜(い)ます」で言い換えられるって分かるんだから、敬語で話すのはそれからでいいじゃん。それができるようになってからの方がいろんな表現への応用が出来るようにもなると思うんだよね。

Kouhei

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